二千年蓮
- 1:所在地
- 新潟県十日町市大字小泉 曹洞宗 水澤山 宝泉寺境内
- 2:由 来
- ハスの博士として世界的に有名な大賀一郎先生が、昭和三十五年四月、喜寿の祝いに十日町大賀会が記念品を送ったことから、感謝の意味で、先生御自身が二千年蓮の苗を持って来て植えられた。 それが昭和三十七年から開花をはじめ以来毎年観蓮会が行われている。昭和三十七年このハスの池のほとりに蓮の碑が建てられた。
- 3:特 色
- 開花期は、年により五日くらいの差はあるが、大体七月二十三日頃からはじまり、八月七日頃まで咲きつづける。 花の大きさは、白蓮とかわりないが、淡紅色の優雅な色で、大唐の玄宗皇帝は、その美しさを楊貴妃の容色にたといている。
- 朝五時半から開花し、午後二時には閉じる。翌日も同じことをくりかえし、四日目には午後二時を期して散火する。蓮は古い時代に中国から渡って来たらしく、古事記、万葉集にもその名が見えている。印度では、生命の創造、長寿、神聖、名誉などのシンボルとされている。
- 4:大賀博士と十日町
- 当麻曼茶羅(たいままんだら)を研究していられた博士はその研究の途中、奈良正倉院の御物を調べる機械があった。その中に調庸された上布は、カラムシで越後国久疋群(くびき群)の調布一反があることを報告して下さった。
- これは十日町織物の一番古い組織と同じく、十日町織物の前身で出ることが明らかになった。
大賀博士が十日町を訪れられたのは、古代織物の研究をしていられる折柄、資料として蒐集した越後上布が、数百年前のものとして精巧に出来ているのに感心して、越後にこられたものだと云う。
- これが昭和二十八年八月十日のことである。そしてこんな山の中にこんな優雅な織物であることに大変驚かれたようだ。
- 十日町としても有志を募って「大賀会」の発会式をみるに至った。博士は織物の外にハスの研究をせられて四十五年になる。
ハスの実は五百年、千年の生命が保たれることが、学理として究明されたが、実証できずに悩んで来られた。それが千葉県検見川の二十尺の川底から発見された三粒の実の実験で、実証されたことを静かに語られた。
- 5:十日町で蓮の花が開くまで
- 昭和二十六年三月、千葉県検見川遺跡の青泥層の下から三粒の蓮の実が出た。最初の一個は六月一日発芽に成功して千葉県農事試験場に依託した。翌年四月それを堀上げて三分して移植した。蓮は通例三年目に花をつけるので、翌二十八年を期待していた。
- ところが、検見の農場の蓮が七月十七日に開花のしるしが見えた。七月一九日朝四時四十五分、二千年と推定される蓮の第一花が開口したかけつけた博士は手放しに喜んで泣きくずれた。
- その蓮は二千年以上と推定されている。この蓮と共のあった丸木船や橈について、考古学者は石器時代のものと云い、ある学者は鉄器地代のものと云う、前者であれば二千五百年前、後者であれば一千五百年前であるので、一応その中間をとって、二千年前と云えるのである。
- 6:その後
- 大賀先生は、それから度々十日町に来ていられる、昭和三十五年の雪祭にも来市していられる。同年四月喜寿の祝いの返礼として、自ら二千年蓮の苗を持参され、宝泉寺の池に植えられたところが三十五年の蓮は管理が悪く枯れてしまい翌年よりまた慎重に育てたのが、現在の蓮である。
- 昭和三十七年八月十二日、大賀博士を迎えて、第一回の観蓮会が開かれた。
- 昭和三十九年七月二十五日、先生を迎えて、蓮池のほとりに「蓮」の碑の除幕式が行われたがこれおが先生の当地に来られた最後となった。大賀博士は、昭和四十年六月十五日午後九時十五分、東京大学病院にて歿せられた。特旨を以って正五位に叙せられる。行年八十二歳。
- 現在二千年蓮の観蓮会の開かれる所は、千葉、鎌倉岡山、鳥取、府中、十日町。
- 7:現在
- 今年(2007年)も、二千年蓮が見事に咲きました。
宝泉寺から約四十年前に長野の善光寺に株分けしたのは、昨年すべて枯れてしまったそうです。蓮を発芽させた大賀一郎先生が直接植えた蓮は、全国で二ヶ所(宝泉寺を入れて)しか残っていないとのことです。責任を強く感じています。
テレビ報道の記録
UX新潟テレビ大島アナと 平成20年8月
BSN新潟放送テレビ 神仏の花道のスタッフと
蓮田根っ子切りと観蓮会 平成21年8月放送予定
平成21年6月20日 住職 島田彰雄 拝